命がホッとする生き方(祖父・多田等観が語ったチベット密教)

この資料は、友人が佐藤伝氏の著書「命がホッとする生き方」(サンマーク出版、2020年2月刊)から、 印象深く感じたことを、抜粋・整理・編集したものです。

佐藤伝:1958年、福島県生まれ。
起業と習慣の専門家。
作家。
明治大学文学部卒。
祖父の多田等観は、チベットでダライ・ラマ13世のもと、チベット仏教を10年間修行し、 ゲシュー(仏教哲学博士)の資格を得、帰国時には多くの貴重な宝物を下賜される。


 

私が祖父の等観から聞いた言葉で最も印象に残っているのが、 「すべては予定通り。宇宙のシナリオに乗っていけ」というものです。

「いいか、人はみんな宇宙のシナリオをもって生まれてくる。自分に起きることは すべて予定通りなんだ。だからシナリオにまかせて、安心して流れに乗っていればいいんだ。

でも、流れに逆らってエゴのシナリオでなんとかしようとすると、苦しい人生になるぞ」

等観によると、人はみな何度も生まれ変わりを経験するそうです。

そして生まれてくるとき「今度は こんな人生を歩もう」というシナリオを自分で決めてくるのだと。

それが、「宇宙のシナリオ」です。 チベット仏教は、死んだらまた生まれ変わるという輪廻転生の考え方に基づいています。

「宇宙のシナリオ」の対極にあるのが「エゴのシナリオ」です。

こうなるはず、こうあらねばならぬ、こうすべきなどはすべて「エゴのシナリオ」です。

人間のバグだ らけの「エゴのシナリオ」を採用すると、人のせい、被害者意識にまみれて生きることになるのです。

また、チベット仏教の奥義を一言でいうと何と聞くと、「ホッとするほうに行け、ということ」だと。

おそらくそれが、「宇宙のシナリオ」という波に乗っていく、ということになるのでしょう。

昔の日本人は生活の中で、「ホッとすること」を積極的にとりいれていました。

白湯を飲む習慣は、体を温めて、ホッとするひとときをつくるためでしょう。

温泉地での足湯も足を温めることで疲れを癒しなごませます。

浴衣は究極のリラックスファッション。

また、「エゴのために苦労しても意味なんかないぞ。苦労なんかドブに捨てろ。魂が楽しいほうを 選ぶんだ」とも言ってました。

魂がホッとする道が「宇宙のシナリオ」にそった道だということでしょう。

そもそも、チベット仏教では、人生を苦行の場と捉えていません。

「苦行などしなくていい。すればするほどカルマ(業)をつくることになるぞ」と祖父はよく言っていま した。

ここでいう苦行とは、自分にも人にも厳しい「こうあるべきだ」という、エゴのシナリオの道を歩 むことです。

こういう生き方をしていると、「あるべきではない」生き方をしている人や自分を責める ようになります。

それがカルマ(業)をつくってしまうのだそうです。

カルマ(業)とは、人が行う行為のことです。

何か行えば、必ず結果がやってきます。

善い行いをすれば、善い結果がやってきますし、悪い行いをすれば、悪い結果がやってきます。

また、「カルマをつくりすぎると、今世では解消できなくて、来世に持ち越したり、場合によっては自 分の弱いところに出ることもあるんだぞ」とも。

弱いところとは、例えば自分の体の弱いところに病 気となってあらわれたり、自分と一緒に暮らしている家族に、メッセージとして不幸が起こることも あるそうです。

では、悪いカルマをためずに生きるにはどうしたらよいか。

それは「苦行ではなく、遊行 (ゆ ぎ ょ う )で生きよ」と、等観は言うのです。

「遊行」とは、楽しく愉快に生きること。

死んで極楽に行くのではなく、生きている今を極楽にせよ――これはチベット仏教に代表される密 教の根幹をなす教えです。

あるとき、等観が不思議なことを始めました。

自分の手を差し出して、 「この手の上におまえの手をかざして重ねてごらん。私の手からちょっとだけ浮かしてかざすんだ よ。そして私が手を動かしたら、すぐにおまえも同じ動きをするんだ。私の動きについてこれたら、 おまえの勝ち。ついてこれなければ、おまえの負けだ」。(祖父が遊んでくれると思っていました)。

等観の手が右に動きます。私もすぐさま右に動かして、祖父の手の上空に自分の手を移動させま した。

今度は左に。何回かやった後、今度は急に、前後左右にデタラメな動きを始めたのです。

予測がつかなくて、私は祖父の手の動きについていけなくなりました。

すると、等観はにこり笑いました。

「今度は目をつぶって、私の手の上におまえの手をそっと重ねてごらん。

力を抜いて、私の手にゆ だねるんだよ。

私が手を動かしたら、どうなるか、よく見ていてごらん」 祖父は手を右に動かしました。

私の手は祖父の手の上に乗っているので、一緒に右に動きます。

今度は左、私の手もそのまま従います。

「あ、一緒に動く」思わず、私は叫んでいました。

祖父は、「そうだよ、目をつぶっていたって、おまえはちゃんとついてこれるだろう?

私の手にゆ だねていれば、なんの苦労をすることもない。

おまえはいつも楽なんだ」と。 祖父を信じて、その上に自分の手を重ね、完全にゆだねてしまうと、その手がどこに行こうとつい ていけます。

なにもしなくても、ついていける。

でも、それを自分の意志の力でついていこうとすると、大変です。

自分の意志の力で動こうとする のは「エゴのシナリオ」です。

それで動いているかぎり、思うようにいかないし、心も乱れます。

私が重ねた祖父の手は「宇宙のシナリオ」です。

100%「宇宙のシナリオ」を信じて、自分をゆだね 3 てしまえば、楽なことこの上もありません。

祖父は言いました。

「信じるのが一番楽なんだ。信じるしかないんだよ。信じない人は、信じるよう になるまで、苦しいことが起き続けるのだ」と。

祖父によると、「もうたくさんです。ありがとうございました」と感謝できるまで、試練は起き続けるの だそうです。

今世でわからない人は、来世に持ち越すこともあります。

魂がわかるまで苦しみは続く。

試練が来た時は、「宇宙のシナリオ」から外れているのです。

等観はよく、「宇宙と一体になりなさい」と言いました。

「一緒になると幸せなんだよ。

離れていると不幸なんだ」。

不幸=分離、そして一体=幸福だということです。

私たちの魂は肉体が滅びてもなくなりません。

では死んだ後、魂はどうなるかというと、「魂のふる さとに帰っていくのだ」、と等観は言います。

私たちの心、すなわち魂は肉体を失った後は、宇宙の エネルギーと一体になります。

密教では、宇宙のエネルギーのことを「大日如来」と呼んでいます。

量子論でいうゼロポイントフィールドです。

要するに、宇宙は見えないエネルギーでできていて、魂 はそこに帰っていき、再び、肉体をもって生まれ変わるのです。

仏教では、絶対神はおらず、あるのは宇宙のエネルギー(大日如来)だけ。

私たちは大日如来=宇宙のエネルギーが、「人間」という形にただ変化しただけなのです。

そして、ここが仏教の中でも密教の大きな特徴ですが、“私たちは、死んでからではなく、生きたま ま宇宙と一体化できる”という教えです。

生きたままどうやって宇宙のエネルギーと一体化できる かというと、それこそがまさしく「宇宙のシナリオ」にそって生きる生き方です。

怖れや心配は、「こうなるはずだが、そうならなかったらどうしよう」というものです。

つまり「エゴのシナリオ」。

でも、宇宙のシナリオにまかせることができれば、すべては予定通り、怖 れも心配も存在しないというわけです。

怖れや心配が皆無の状態は、幸せです。

幸福とは、「宇宙のシナリオ」に自分をゆだね、宇宙と一体化している状態といえるでしょう。

反対に不幸な状態とは宇宙と分離し、「エゴのシナリオ」で生きること。

キャンプ場に行って、満天の星を眺めた時、なんともいえない幸福感を感じるのは、自然や宇宙と 一体になったと感じているからではないでしょうか。

「おまかせ」こそが、最強の生き方なのです。

私が小学生だった頃、「将来、何になりたいか書いてきなさい」という宿題がでました。

父は医者でしたが、私は医者になるのが嫌で、宿題を書くことができず泣き出しました。

その時、たまたま家に来ていた等観が、黙って硯と墨を差し出しました。

「息という字を書いてごらん」 「いいか『息』という字をよく見てごらん。

『自』と『心』つまり『自分の心』と書くだろう。

人は自分の心 さえ持っていればいいんだぞ。

息だけしていればいいんだ。

何者にもならなくたっていいんだぞ」

人はいつも「何かしなければ」「何かにならなければ」と追われて生きています。

でも「宇宙のシナリオ」があるなら、本当は夢も目標もいらないはずです。

既にもうシナリオがある のですから、それにそって楽に生きていけばいい。

「夢がないからダメな人間」なのではなく、宇宙 から見たら、個人の夢、つまりエゴの夢など幻影なのです。

仏陀は、「凡であることはとても大事だ」と弟子に告げています。

弟子たちが「私たちもお釈迦さま のようになりたいです」と言った時、「ならなくていいよ」と、はっきり答えています。

仏陀は、「ありのままでいいんだ。それなのに、なぜお前たちは別人になろうとするのだ」と。 夢に向かって走れ、という考え方をしている限り、永遠に心の安らぎはありません。

「今のままではダメ」なのですから、「ダメな今」が永遠に続いていくだけです。

息をしているだけでいい。

何者かにならなくてもいい。

それじゃ今のままの自分でいいんだ、と都合 よく勝手に解釈する人が出てきます。

それは違います。「今のままの自分」が「あるがままの自分」 とは限りません。

宇宙のシナリオに則した本来の自分になっているかどうかは、ちゃんと検証しな いといけません。

では、「あるがままの自分」はどうやって見つけたらいいのでしょう。

等観は、「あるがままの自分は、ホッとしているんだよ」と言ったことがあります。

まさしく、「ホッとしているかどうか」で、自分の状態がわかるのです。

「これは本来の自分じゃない」という状態の時は、どこか心がざわざわしています。

毎日、ゲームばかりして、何もしないで暮らしていて、「ホッとしている」でしょうか?

「あるがままの自分」かどうかを判断する方法は、もう一つあります。

それは、よい方向に変化して いるかどうかです。

密教で一番大切だとされているのは、「幸せ」よりも上位概念の「自由」です。

何ものにもとらわれず、自由に見て、自由に選び、自由に行動できることこそ魂の本来の姿だと。

自由の本質は「変化」そのものです。

変化しなくなった状態は「死」です。

細胞分裂が止まり、血液 が流れなくなった時、死が訪れるのです。

「今のままでいいんだ」という人は変化を怖れています。人から何かを言われるのが怖いとか。

でも、「あるがままの人」は自由です。

たとえ人から何かを言われても、そのことにいちいちビビッ たりしません。

言われたことをジャッジせず、しなやかに受け止め、次に活かそうとするので、自由 に振舞えます。

「宇宙のシナリオ」の通りに生きていると、大きな流れとして進化する方向に向かっていきます。

みなつながって、一体になりながら、「よりよくなる方向」に変化していくのです。

生命の進化を見ていたら、よくわかります。

最初は海の中でアメーバのような得体の知れないもの だったのに、そこから陸に上がって進化を重ね、両生類から爬虫類に、そして哺乳類に、さらにヒト へと進化を遂げました。

最初は弱肉強食で、生きるか死ぬかしかなかったのに、だんだんみんな で助け合い協力しあう社会をつくっていきました。

人も世界も変化し、成長し、「よりよくなる方向」に発展していることがわかります。

「宇宙のシナリオ」にそって生きれば、必ず「よりよくなる方向」に成長していけます。

これさえ信じられれば、私たちは何も怖れることはなくなります。

また、等観は、「私たちはみんな、大きな大きな家族なんだよ。みんなつながっているんだ」とも言 っていました。

どんな人のことも、みんな家族だと思ったら、はなから毛嫌いしたり、イライラしたり、 腹がたったり、警戒することもなくなるでしょう。

一体化する方向へと行動を変えていく。

そのためには、「私たちは同じ家族。みな根っこでつながっている」と考えるのが一番です。

そうすると、不思議と自分も自分をとりまく世界も変わっていきます。

ある時、等観に聞いてみたことがあります。「命ってなに?」 「光だよ」即座に等観は答えました。

「命のもとは光なんだ。私たちはみな光なんだよ。

でも光のままでは地球で生まれ変われないだろ う? だから、地球に来る時に、入れ物みたいにもってくるのがこの体なんだ。

体は命を入れてい る一時的な入れ物なんだよ。

入れ物だから、いつかはこわれるよね。

そしたら光になって、またふ るさとの宇宙に戻っていくんだ」

等観によると、木々の間から降り注ぐ木漏れ日や、雨上がりのキラキラした光は、みなご先祖さま の命のシャワーだそうです。

私たちが光を浴びて、生き返るような気分になるのは、ご先祖さまの 命のエネルギーを受け取っているからです。

闇を観ず、光を観る生き方の極意として、等観から教わったのが、「そうなんだ。愉快、愉快」とい う言葉です。

等観は、何かというと「そうなんだ。愉快、愉快」と言っていました。

「じいちゃん、妹がまたぼくの邪魔をしたよ。怒ってやって」 → 「そうなんだ。愉快、愉快」

「あのね、算数で悪い点、とっちゃった」 → 「そうなんだ。愉快、愉快」

私は長い間、この言葉は怒っている人をなだめるためのチベット仏教の呪文みたいなものかなと 思っていました。

でも、大人になってかなり経ってから、本当の意味に気がついたのです。

この言葉は、自分自身に向けた言葉だったのです。

自分に起きたことを、たとえ辛いことであっても、ありのままに受け止め、怖れや不安を払拭し、闇 でなく光を観て生きる、シフトチェンジするための魔法の言葉だったのです。

等観が「愉快」という言葉を知ったのは、チベットで10年間を過ごし、いよいよ日本に帰るという時 です。

ダライ・ラマ13世からこの言葉を授けられたのです。

祖父は「今日が最後の夜と思うと、とて も悲しい」と涙を流して訴えました。

すると、ダライ・ラマ13世が「愉快、愉快、と言ってみなさい」と 仰ったそうです。

何が起きても、宇宙のシナリオ通り、予定通りと考え、そのことを「愉快、愉快」と 受け取れば、自分に起こることはすべて楽しいことだけになります。

近くの神社で開かれた縁日に、等観と私と妹の3人で出かけ、金魚すくいが人気を集めていまし た。

金魚がなかなかすくえずに妹が泣き出した時です。

等観はしゃがんでいる妹の後ろに回って、 妹の手を一緒にとりました。

そして「『ありがとう』と言いながら金魚をすくうと、ちゃんとすくえるよ」 と教えたのです。

等観が「ありがとう」と言いながら、妹と一緒に金魚をすくうと、今まであんなに逃 げ回っていた金魚が不思議に1匹ぽんとすくえました。

妹は喜んで泣き止みました。

私は驚いて、「じいちゃん、どうやってやったの? どうしたらすくえたの?」と祖父にたずねました。

等観はとぼけたような顔で、「金魚と戦っちゃいけないよ。とれなくても怒っちゃいけない。

『ありが とう』と感謝すればいいんだ。

戦わないのが一番強いんだよ」と。

「戦わないほうが強いんだよ」ということは、その後も何度か聞かされました

。私が学校で友達と喧 嘩をして帰った時も、「喧嘩してどうするんだ。喧嘩しても次の喧嘩がまたやってくるよ。仲良くした ほうが、両方どっちも勝てるんだ」。

そして話してくれたのがイソップ童話の「北風と太陽」でした。

「分離」ではなく「一体化」。

「戦い」ではなく「調和」。

「相手の敵になる」のではなく、「味方になる」。

宇宙のシナリオは、戦うより、相手の視点を慮って同じ立場に立って一体化へ向かっていったほう が、よりうまくいくようにできているのです。

チベットから帰国した後の等観は、けっして恵まれた生活を送ったわけではありませんでした。

実力主義のビジネスの世界と違って、研究者や学者の世界では、学歴がないということが致命的 でした。

等観は秋田の貧乏なお寺の三男坊で、早くから京都のお寺に手伝いで出されていました。

家でみんなでご飯を食べていた時です。

貧乏をみかねた私の母が、父である等観に詰め寄ったこ とがありました。

「こんな扱いしか受けなくて、お父さんは悔しくないの?」

母なりに等観を認めない宗教界や学会の権威に対して、義憤を感じていたのでしょう。

しかし、等観は動ずることなく、淡々とこう答えました。

「ギフトだから」 自分の不当な扱いも、宇宙がくれた贈り物だ、と言ったわけです。

誰も認めてくれなくていい、誰も愛してくれなくていい。

なぜなら宇宙が愛してくれているから、というのが等観の想いだったのではないでしょうか。

人の想いはエネルギーだと、等観は看破していました。

というのも、等観がわが家を訪問する時、 けっして声をかけたり、扉を叩いて知らせずに、ただじっと黙って玄関の前に立っていたからです。

等観はそうやって自分の来訪を、“想い”で家人に知らせていたのです。

等観の気配を最初にキャッチするのは、子どもたちでした。

特段、物音がするわけではないのに、 なぜか等観が玄関に立つと、私や妹はその気配を敏感に感じることができました。

そういえば、毎年行われるセンター試験や中学・高校の入学試験の時、やたらと雪が降って、電車が遅れたり、バスが止まったりしませんか?

あれは、ものすごくたくさんの人たちが、「今日、 雪が降ったらどうしよう。大雪になったら大変だ」と雪に想いをはせるので、結果的に大雪を招い ているのではないでしょうか。

右の図は、等観が私に描いてくれた図です。

 

「いいか、人はみんな穏やかで安定した生活をしたいと思うよね。

でも安定した状態にずっといると、変化したくなるんだ。

それで、安定を捨てて、変化に富んだ生活をしていると、逆に今度は 安定が欲しくなる。

常に変化と安定の間を行ったり来たりして一生を 終えてしまう人が多いんだよ」

「変化したい」と「安定したい」の間を行ったり来たりしているうちは、心がざわざわして安寧があり ません。

どうすればいいのかというと、「安定」でも「変化」でもないものを目指せばいいのです。 等観はこう言いました。

「『成長』を目指せばいいんだよ。

安定でも変化でもなく、成長を目指せば、 人生はもっと豊かになって、心の安らぎも得られるんだ」。

等観は「安定」と「変化」の上に、「成長」 という〇を描き、「ここを目指すんだ」と言いました。

でもどうやって、「成長」を目指したらいいのでしょう?

等観は「手放せばいいんだ」と。

今、私なりに解釈している「手放す」とは、「安定」にも「変化」にも執着しないこということです。

“執着しない”とは、そうなってもいいし、そうならなくてもいい。

どっちでもいいと思うことです。

「安定」を求めてもいいし、求めなくてもいい。

「変化」をしてもいいし、しなくてもいい。

ゲームがなぜ楽しいかというと、勝っても負けてもどちらになってもいいからです。

ビギナーズラックもその典型です。

勝負にこだわらないから、結果が出る。

執着を手放すにはどうしたらいいのか。

これが仏教の大きなテーマです。

執着を手放した状態を 「悟り」といいます(「差を取る」に由来)。

この境地に達するために、従来の仏教では必死の修行を 行います。

多くの仏教では、執着しないために欲望を否定します。

一方、チベット仏教に代表され る密教では、欲望を否定しません。

むしろ欲望を肯定することで、欲を捨てようというまったく逆側 からのアプローチをしています。

なぜなら、欲望は否定すればするほど、かえって執着のスイッチ がオンになって自己増殖し、より大きくなっていく存在だからです。

「しても、しなくても、どちらでもいい。あなたの本質は何ひとつ変わらない」、と等観は言います。

最終的に目指すのは「どちらでもいい」という世界です。でもそう思っても、なかなかその境地に到 達できないと思うのです。

ならば、まずは欲望を否定しないことから始めよ、と等観は言っています。

「これがしたい!」「これが欲しい!」と思う欲があるなら、それに執着することなく、とことん追求し てみたらどうか、と等観は言ったのだと思います。

この考え方は、小欲を捨てて、大欲を得よ、という密教の基本スタンスに通じています。

密教では、どうせ欲望が消せないのなら、小さい欲望=小欲ではなく、大きい欲望=大欲にせよ、 と教えています。

例えば、「自分だけが幸せになりたい」が小欲だとすると、自分だけの幸せでは なく、身内の幸せも、友達の幸せも、同僚の幸せも、なんだったらライバルの幸せさえも徹底的に 追及する。

小さい幸せではなく、徹底的に大きな幸せを追求する。

結果的に「世界中の生きとし生 けるものを幸せに」と思う大欲にたどりつけば、ちっぽけな自分の幸せなど、どうでもよくなります。

すなわち、欲を極大化することで、実は小欲を手放すことになっています。

気がつくともう欲ではな くなっているわけです。

小欲を極大化すると、欲に対する執着はなくなり、欲はかなう。

私は宿題でもなんでも後回しにする性格だったので、親からいつも怒られていました。

等観からも「すぐやれることは、今すぐやりなさい。それをやらないで放置すると、どんどん育って、 もっと大きな荷物になって返ってくるんだよ」と言われたことがあります。

小さなことをおろそかにするな、放置すると大きく育つ、ということでしょう。

マイナスの種はできるだけまかない。

まいたとわかったら、すぐに刈りとることが大切なのです。

また、「これくらい、いいだろう」とやってしまったことが、後で一大事を引き起こすかもしれません。

言葉について等観が語ったことがあります。

家で私が母からひどく怒られていた時でした。

たぶん、 宿題を忘れたか、テストの点が悪かったのでしょう。

近くにいた等観はとても穏やかな口調で母に、「おまえ、怒ると叱るは違うぞ。人に対して注意するときは、ふつうのトーンで叱らなければいけな い。おまえのはただ感情にまかせて怒っているだけだ。小さい子どもに対してとるべき態度ではな い。いい加減にしなさい」。

すると、空気が一変しました。

さらにこうつけ加えました。

「言葉は刀だ。ひとつの言葉で地球が震えることだってあるんだぞ。自 分の口から出す言葉には注意しなさい」

また、等観は「幸せに生きようと思ったら、自分のあらゆる活動を細やかにしていくことが大切なん だ」と言ったことがあります。

あるとき、等観が半紙に丸く円を描いて、私に聞きました。 「いいか、これが小さな池だよ。この中におまえが大きな石を投げ入れたらどうなると思う?」

私は池に大きな石を投げるところを想像しました。

きっと、ドボーンと大きな水柱がたって、池の水 面は激しくゆれて波だつでしょう。

でもやがて大波はおさまって、池は静かになります。

じゃあ、「今度は、池の端っこに手を入れて、そっと動かしてごらん、池はどうなるかな?」と。

私は池の端に手を入れて、ちゃぶちゃぶしているところを想像しました。

さざ波がたって、波紋が広 がっていきます。

それが池全体に広がっていき、次々とさざ波が起きてくるでしょう。

その波は小さくて、細やかですが、なかなか消えず、いつまでも池の表面で波立っているはずです。

等観は言いました。

「いいか。世の中はすべてのものにはバイブレーション、つまり波動があるん だ。粗い波動もあれば、細やかな波動もある。例えば池の中に大きな石をドボンと放りこむのは、 粗い波動だよ。高い波がたって、池の水面が大きく揺れ動く。でもそれはいっときのものだ。やが て収まってしまう」

等観は今度は半紙に人の絵を描きました。

「人も同じなんだよ。自分を大きく見せたくて、相手を大声で脅したり、物を叩いて威嚇する人がい る。つまり粗い波動を出す人のことだ。その時はみんなびっくりして、言うことを聞くかもしれないけ れど、そんなものは長く続かないんだ。

粗いバイブレーションで変わるのは、ほんのいっとき。

長く 影響を与えるのは、細やかな波動なんだよ」

ある人が、相手に対して優しくします。

すると、優しくされた人からはセロトニンという幸せホルモン と、オキシトシンという愛情ホルモンが出て、とてもいい気分になります。

興味深いのはここからで す。セロトニンとオキシトシンが出るのは、相手だけではありません。

優しくした張本人、つまり自 分からもセロトニンとオキシトシンが出るのです。

さらに驚くべきは、その光景を見ていた周りの人 にも影響が広がるということです。

周りの人も、みんなセロトニンとオキシトシンが出るのです。

また、本物の宝石は細やかなバイブレーションを出しているそうです。

ですから、宝石を身につけていると、バイブレーションが細やかになります。

等観はいっさい宝石は身につけていませんでした。

なぜと聞くと、 「思うだけでいいんだ。宝石があると思っていれば、身につけたのと同じなんだよ」と。

子どもの頃、お彼岸やお盆でお墓参りによく連れていかれました。

そこで、「じいちゃん、ご先祖さ まって、あの墓石の下にいるの?」と聞きました。

等観は笑って答えてくれました。

「ばかだな。あ んな所にいるはずがないだろう。

ご先祖さまはお墓の下じゃなくて、どこにでもいるんだよ」と。

さらに、等観はご先祖さまについて、とても重要な考え方を教えてくれました。

「いいか。よく聞け。お墓はあの世とこの世をつなぐ電話機なんだよ。

でもただ電話機の受話器を 持ち上げただけじゃ、相手につながらないだろう。

番号を回さなきゃいけない。

だからお経をあげる んだ。

お経や真言(マントラ)は電話番号だよ。

お墓に行って、お経や真言を唱えるのは、電話機 の所に行って、番号を回すのと同じだよ。

すると、あの世にいるご先祖さまにつながって、「もしもし」 って話ができるんだ」。

また、戒名(法名)も大切で、戒名はあの世でのその人の名前だそうです。

等観と駄菓子屋さんに行った時のことです。

駄菓子を買ってお店の人から商品を手渡された時、 私は「ありがとう」と言って受け取りました。

すると、そばにいた等観が「惜しい!」と言ったのです。

「今のは50点だな。『ありがとう』に『ございます』をつけたら100点だったぞ」と。

等観の説明によると、「ありがとう」は「有ることが難い」、つまりそれが起こることはなかなかない。

起きているのが奇跡、という意味だというのです。

要するに、ありがとう=奇跡、というわけです。 それに「ございます(ご座居ます)」をつけるのは、「奇跡がここにございます」、つまり、今ここに奇 跡があります、起きましたという意味になります。

そして、どんなことにも「ありがとうございます」と 感謝していると、「ありがとう」の奇跡が起きやすくなります。

「ありがとうございます」は感謝の言葉です。

この言葉は、感謝してものごとを終わらせる時にも使 えると、等観は言っていました。

「十分味わい尽くしました。ありがとうございます、って感謝すると、 別のレールに切り換わるんだよ」と。

「十分味わい尽くしました。ありがとうございます。もう私に苦 しみという雨を降らせる必要はありません。喜びの雨を降らせてください」と感謝する。

すると、苦しみから見事に開放されるというのです。

この「感謝する」が大事。感謝しないと、私たちの魂のふるさとである宇宙に声が届きません。

等観は“凄くパワーのある言葉”、“徳積み”についても語ってくれました。

「世の中に凄くパワーのある言葉がある。一つは『ありがとうございます』。

もう一つは『ごめんなさ い、許してください』だ。

この二つがしょっちゅう使えるようになると、すごい運がめぐってくるぞ」。

「徳積みはな、ご縁があった人の心をほんのちょっぴり軽くするだけでいいんだ。例えば、おまえの 学校で、泣いている子がいたとするよな。その子に『大丈夫?』と声をかけてあげるだけでいいん だよ。その一言で、ご縁があったその友だちの心がちょっぴり軽くなるだろう。それだけで立派な徳積みになるんだ」

何も怖れることはありません。

私たちは予定通り生き、予定通り死んでいくだけです。

すべて宇宙におまかせして、ただ息をしているだけでいいのです。